戦艦 大和CHILDREN ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

戦艦大和といえば・・・・ここ!!

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

戦艦大和CHILDREN Ver1.5

戦艦大和 艦長

有賀幸作

有賀幸作(あるがこうさく)・・・大日本帝国海軍の軍人。
最終階級は大佐(死後中将)、長野県出身。
海軍兵学校卒(45期)卒。
1944年(昭和19年)11月6日、大和艦長に着任する。
戦艦大和7代目艦長にして大和の最後の艦長である。
水雷戦隊の指揮官として経験を重ね、机上の理論より実戦での経験を大切にする当時としては数少ない軍人の一人であった。
豪放大胆な性格で、戦上手な指揮官として部下からの信頼も厚い人物であった。
見事な禿頭な上にヘビースモーカーで、部下から「エントツ男」とあだ名され、歯はヤニだらけだったという。
また、極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。
4月7日、坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け沈没した大和と運命を共にした。
菊水作戦時の第二艦隊参謀長森下信衛とは同期。

『戦艦大和の主』を自称していた奥田特務少佐(当時第二主砲砲塔長。実戦配備された時から一貫して大和に乗艦していた)との逸話は有名。
少佐に激しく退艦を拒否されるが(その際、奥田特務少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行ったと云う)、有賀は怒り狂う奥田特務少佐に対し軍人勅諭を例に出しながら説得し、泣く泣く少佐は退艦、このことは戦後、奥田特務少佐の回想録に記述されていて事実である。
戦艦大和チルドレンTOPへ

戦艦大和 艦長

森下信衛

森下 信衛(もりした のぶえ)・・・・大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。愛知県出身。
海軍兵学校(45期)卒業。
戦艦榛名、大和などの艦長を務め、菊水作戦では第2艦隊参謀長を務めた。
この菊水作戦時の「大和」艦長、有賀幸作とは海兵同期である。

日本海軍屈指の操艦の名手。
大和の艦長であったレイテ沖海戦では、巧みな回避運動で、僚艦の武蔵が爆弾10発以上。魚雷20本以上の命中という猛攻を受けて沈没したにも関わらず、ほとんど被害らしい被害を出さなかった。
その際、防空指揮所においてくわえタバコのままで防弾チョッキも着用せず、指揮を執ったという伝説があったという。
このとき、大和の進路や速力を記録する信号員は、あまりに頻繁な転蛇をフォローしきれず、回避運動適宜とのみ記したという。

後任の有賀艦長の着任後も引き続き、第2艦隊参謀長として大和に乗艦し、生還している。
大和の沈没後、「艦長が泳いでいるのを見た」という生存者の目撃証言は、森下前艦長を誤認したものではないかと言われている。
戦艦大和チルドレンTOPへ

戦艦大和 艦長

大和の艦長(松田千秋)

松田千秋・・・戦艦大和3代目艦長。
旧制熊本県立鹿本中学校より海軍兵学校第44期入校。
入校時成績順位は100名中第89位、卒業時成績順位は95名中第14位。

松田は典型的な砲術畑の出身者で、駐米海軍武官補佐官、軍令部第1課員などの要職を歴任している。
標的艦「摂津」艦長として航空攻撃に対する操艦マニュアルを作成し、実戦部隊である戦艦「日向」「大和」艦長や第4航空戦隊司令官を務めた際もその経験を活かして活躍した。
戦艦「日向」「伊勢」を航空戦艦への改装を提案したのもこの人であるる。

昭和11年1月に当時の内務省警保局特別警察部が作成した『海軍士官要監視人物』なる極秘資料に松田の名が記載されている。
2.26事件に加担した陸軍青年将校の思想に同情的と見られていた為で該資料に掲載された海軍士官数名は事件後に予備役編入の処分を受けた。
また松田は日本海軍の駐米経験者では珍しく反米主義者だった。

総力戦研究所勤務時代には現在の「面接」のスタイルを日本で初めて導入したことで知られる。
戦艦大和チルドレンTOPへ
私が月収100万円以上にした方法 全額返金保障付
過去の記事へ
カテゴリ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。