戦艦 大和CHILDREN ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

戦艦大和といえば・・・・ここ!!

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戦艦大和CHILDREN Ver1.5

戦艦大和 歴史

大和の生涯(簡潔)

戦艦「大和」は、艦隊決戦の切り札となるべく、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工された。
大和は対米英開戦直後の昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工、第一戦隊に編入された。
昭和17年2月には、これまで12年間にわたり連合艦隊の旗艦を務めた「長門」から旗艦の地位を譲り受け山本五十六長官の将旗を掲げる事となった。

太平洋戦争が始まり、日本は破竹の進撃を続けたわけであるが、その間大和は瀬戸内海の柱島基地において訓練に励んでいた。
その後太平洋戦争の天王山とも呼ばれるミッドウェイ海戦に参加した。昭和17年6月5日に海戦が始まったが、南雲艦隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の航空母艦を失い、大敗北となった。
その時大和は戦場から300海里も離れており、応援のすべもなく、柱島基地に帰投した。

昭和18年8月、戦場はソロモン海域に移り、大和も南方戦線の最大拠点であるトラック島に進出した。その後戦局は悪化していき、昭和18年2月に大和は旗艦の座を二号艦の「武蔵」に譲ることとなった。
その間トラック島と日本を何度か往復したが、出撃の機会は訪れなかった。
昭和18年12月に大和は米潜水艦スケートの雷撃を受け、魚雷1本が右舷に命中、初めて損傷を被り、呉海軍工廠にて修理と共に高角砲、機銃の増設等の改装工事が行われた。

修理を終えた大和はリンガ泊地に進出し、米軍のサイパン侵攻に備えた。
そして昭和19年6月11日から米機動部隊によるサイパン空襲が行われたことから救援に行き、昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦となる。この時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたのである。目標は敵艦船ではなく、敵艦載機で27発(3斉射)を撃ったにすぎなかった。

その後大和は、昭和19年10月23日のレイテ沖海戦に参加した。
24日大和はシブヤン海域において米艦載機の攻撃を受け、主砲31発を発射するが、爆弾一発が命中した。
翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって3式通常弾24発、徹甲弾100発の主砲を発射し、敵空母に損傷を与えた。
これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃となった。
この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。

大和はその後日本に戻ったが、昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸した事から水上特攻部隊として出撃し、生還を望まない攻撃に出発した。
大和は昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没したのである。この時の主砲は27発しか発射されなかった。
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戦艦大和 歴史

大和の静かなる建造

戦艦大和(計画名A140F5)は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された(※第4ドック〔第4船渠〕は整備・補修・艤装用ドックで建造用ではなかった)。
その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、それは秘密裏に建造され、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われていた。

帝国議会での報告でも実際の建造予算は1億4287万円であったが、計上予算はその8割の9800万円とされた。大和の建造は軍極秘で帝国議会に対しても、排水量35000tの戦艦と架空の駆逐艦3隻と潜水艦1隻を建造するとして計上して予算要求されたものだった。

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。

そして1940年8月8日進水、『天皇陛下進水式御臨席』の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦は、あえて臨席している面々に聞こえないように小声で「大和」と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。
もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はただドックに注水するだけであった。
しかも、機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。
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戦艦大和 歴史

大和は当時は知られていなかった?!

大和の建造は最高機密とされ、研究に携わる人間全てが厳密に監視されているなどの徹底措置がとられており、一般の人間には全く知られていなく、計画段階では軍の本の一部しか知られていないということがあった。

現在では大和は最も名前の知られた戦艦であり、ほかの艦の名前は知らなくても大和なら知ってるという日本人は多い。
やはり有名になったのは「宇宙戦艦ヤマト」を筆頭に漫画やアニメーションの影響を受けていて、こういうものは海外ではあまり流行らなかったため、大和を知らないという人は珍しくない。

当時世間一般に知られていた軍艦といえば「長門」や「陸奥」であっただろう。
長門は世界初の16インチ砲搭載の戦艦であり、初の国産の戦艦ということもあり当時は最強の戦艦として国民に親しまれていた。

現代では「男たちの大和/YAMATO」が映画として一躍話題になり、旧日本海軍の戦艦=大和 としてのイメージが確立している。
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戦艦大和 歴史

大和、命名

戦艦大和は日本海軍の艦名命名法に則って、戦艦なので旧国名、奈良県の大和国にちなんで名づけられた。

実はこの大和は「大和」という名前を有する2番目の艦だということは世間一般にはあまり知られていない。

初代大和は葛城型(初代)の二番艦、3本マストの汽帆兼用の鉄骨木皮スループで、初めは巡洋艦と称され、後に三等海防艦、二等海防艦、特務艦(測量艦)となり最終的には、刑務所の宿泊船となり戦後台風の為沈没し、解体された。
姉妹艦に「武蔵」(初代)もいる。
日本海軍最初のケースとして民間の神戸小野浜造船所で建造された。

なお、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」そのものを象徴する意味合いも含まれていて、海軍の本艦にかける期待の度合いが見られる。

よくある勘違いなのが戦艦とは軍艦における位置づけであり、一般に、建造時に開発・製造可能な最大の大砲(主砲)を搭載している
自艦に搭載した主砲弾の被弾に耐えられる装甲を有している
などの定義がなされている。(例外あり)
よって、正式な呼称は、軍艦「大和」である。
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